Inoue Genzaburo - 井上源三郎
(1829 - 1868) Lý lịch trích chéo Tên | 井上源三郎 一武 Inoue Genzaburo Kazutake (Tỉnh Thượng Nguyên Tam Lang Nhất Vũ) |
Ngày sinh | 4/4/1829 |
Tên thường gọi | Gen-san |
Nơi sinh | Kitahara, Hinojuku, xứ Musashi |
Thời gian trong Shinsengumi | 1863〜1868 |
Chức vụ | Phó cục trưởng trợ cần / Đội trưởng đội 6 |
Dòng kiếm | 天然理心流 (DòngThiên nhiên lý tâm - Tennen Rishin-ryu) |
Ngày mất | 40 tuổi /5/1/1868 (Lịch dương: 29/1) |
Mộ | Chùa Hosenji : 宝泉寺 (Bảo Tuyền Tự) |
Pháp danh | 誠願元忠居士 (Seigan genchu koji) Thành Nguyện Nguyên Trung Cư Sỹ |
文政12年3月1日、多摩郡日野宿で八王子千人同心・井上藤左衛門(松五郎)の三男として生れる。
井上家の祖先は駿河今川家の家臣で、桶狭間の戦い後、甲斐・武田家に使えた。
武田家滅亡後、武田家の遺臣を中心に結成された、半士半農の八王子千人同心として徳川家に使えた。
兄弟は5人で、次男の松次郎が井上家を継ぎ、松五郎を襲名した。
源三郎は弘化4(1846)年頃、父、兄と同じく、八王子周辺に根付いていた天然理心流の近藤周助に入門する。
佐藤彦五郎が屋敷に構えた道場で剣を学んだ。
剣術の稽古に熱心で農作業が疎かであったという。
嘉永元年に目録、万延元(1847)年には免許皆伝となった。
文久3(1863)年、浪士組上洛に参加する。
新撰組結成後は、試衛館一門の最年長者として対外的な交渉などの仕事もこなした。
副長助勤、六番隊組長を勤める。
池田屋事件では、土方隊の別働隊10名を率い活躍、褒賞金十七両を賜る。
慶応3年(1867)年6月には見廻組格として幕臣に取り立てられ、その年の10月に土方歳三とともに江戸に下り隊士募集を行っている。
このときの募集で甥の井上泰助も入隊した。
慶応4年(1868)1月3日、鳥羽・伏見の戦いが始まる。
新選組が陣を敷いていた伏見奉行所は炎上し、新選組は淀方面へと退却した。
そして4月5日、淀千代松での激戦の中、銃弾に撃たれ、戦死。
享年40歳。
無口で、温厚な性格で、若い隊士からの人望も厚かったという。
頑固な面もあり、一度言い出すとテコでも動かないところがあったともいう。
勇や歳三の親代わりのような、温厚な源三郎。
わりと老けたイメージがあるが、実際は、勇らより5~6才年上なだけである。
出身も多摩だけに、勇、歳三、総司との絆は強かった。
子供の頃の、腕白な勇や歳三を、兄のような目でたしなめている源三郎、という感じの小説が結構あるが、なかなか微笑ましいものがあると思う。
愛刀は奥州白河住兼常。二尺二寸五分。宝永二年二月の銘。
隊内では主に対外的な職務や要人の接待などの総務を担当した。同門の近藤や土方とは絶大な信頼で結ばれており、2人をよく補佐していた。
八木為三郎は「井上はその頃40歳くらいで、ひどく無口な、それでいて非常に人の良い人でした」という旨の発言をしており、実際に若い隊士からの人望も厚かったという。一方で頑固な面もあり、一度言い出すとテコでも動かないところがあった。
また、壬生で子供たちと遊んでいた沖田総司が通りがかりの源三郎に「また稽古ですか、熱心ですね」と声をかけると、「わかっているなら稽古をしたら良いのに」とたしなめたというエピソードが残っている。