Kondo Isami - 近藤勇 (1834〜1868) Lý lịch trích chéo Tên | 近藤勇昌宜 (Kondo Isami Masayoshi) (Cận Đằng Dũng Xương Nghi)
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Tên thủa nhỏ | 宮川勝五郎 (Miyagawa Katsugoro |
Tên giả | 大久保大和 (Okubo Yamato) |
Ngày sinh | 9 tháng 10/1834 |
Nơi sinh | Kamiishihara - Tama, Bushu |
Thời gian trong Shinsengumi | 1863〜1868 |
Chức vụ | Cục trưởng Shinsengumi |
Dòng kiếm | 天然理心流 (DòngThiên nhiên lý tâm - Tennen Rishin-ryu) |
Ngày mất | 35 tuổi/25/4/1868 |
Mộ | Chùa Ryuugenji - thành phố Mitaka, Chùa Tenneiji - Aizu Matsuwaka |
Pháp danh | 貫天院殿純義誠忠大居士 (Kanten inden jungi seichuu daikoji) Quán Thiên Viện Điện Thuần Nghi Thành Trung Đại Cư Sỹ |
生誕~多摩・江戸
武蔵国多摩郡上石原村の農家・宮川久次郎の三男として生れる。幼名を勝五郎という。
軍談好きの久次郎の影響を受け、関羽や加藤清正に憧れて育つ。
また剣術好きも父から受け継いだ。久次郎は自宅に道場を建て天然理心流の近藤周助を招いて、剣術指導を受けた。勝五郎は嘉永元(1848)年、16歳の時に正式に修行を始め、翌年には目録を授けられた。子のなかった周助に才能を買われた勝五郎は、養子となり、天然理心流四代目を継ぐこととなる。
若いころの勇は、いつしか酒色を覚えると、元来一途な性格が災いし、八王子の遊郭に入り浸ることもあったという。
万延元(1860)年、つねと結婚する。この前に美人ばかり5,6人と見合いしたが、気に入らず、あまり器量の良くないつねを選んだ。近藤には「醜女は貞淑。貞淑な女性を妻にしたい。」という持論があった。
浪士組参加~新選組黎明期
文久3(1863)、浪士組募集に応じ、上洛の途へ。勇は道中先番宿割という役職が与えられた。
京都に到着すると、浪士組の黒幕であった清川八郎の陰謀が露見する。浪士組を倒幕の運動のために利用しようとのだ。そのため、浪士組は江戸へと帰されることになる。
近藤は芹沢鴨らと共にこれに異を唱え、京都に残留した。京都守護職・松平容保のお預かりとなった近藤らは壬生浪士組を結成し京都の警護にあたった。近藤は芹沢、新見錦と共に局長となった。
しかし、芹沢一派は暴挙が目立ち、近藤・土方らにより粛清される。これは、会津藩による指示であったとも云われている。
池田屋以降
池田屋では、愛刀虎徹を手に自ら先頭に立って戦った。
池田屋での活躍により、その名がが世に広まり、新選組は最盛期を迎える。それと同時に勇の立場も重くなり、現場で剣を振るうこともなくなる。主な仕事が政治向きな事となっていく。
慶応3年、新選組は正式に幕府直参となる。
四候会議でに同席した際「親藩たる以上、幕府に非があろうと、これを庇護するべきである。」と松平春嶽を批判した。
同年12月18日、高台寺党残党に狙撃され肩を負傷する。この傷のため翌年の鳥羽・伏見の戦いには参加できなかった。
鳥羽・伏見の戦いに敗れた幕軍は賊軍の汚名を着せられ江戸へと撤退する。新選組も幕艦にのり江戸へ向かった。
甲陽鎮撫隊~最期
3月1日、新選組は甲陽鎮撫隊として出陣する。傷の癒えていない勇も指揮を取った。甲府城はすでに新政府軍の手にあり、勝沼で戦うも一日と持たずに敗れる。下総の流山に陣を移すが、4月3日昼、新政府軍に包囲される。勇は自刃を決意したが、土方に反対され思いとどまり、正体を隠して投降する。
だが、すぐに見破られ、4月5日、板橋の総督府に送られた。正式な裁判にかけられることもなく、切腹も許されなかった。
4月25日、板橋の刑場で斬首された。享年35歳。
首は板橋で3日間、京に運ばれ三条河原でも3日間晒された。
▲ Chuyện bên lề ▲ * 口に拳骨を丸ごと咥えこむという珍妙な特技を持っていた。近藤が尊敬していた戦国武将加藤清正も同様の特技を持っており、それにあやかってとのこと。
* 愛刀は長曽禰虎徹興里。講談などでの近藤の決め台詞「今宵の虎徹は血に餓えている」は有名。
o 実際には近藤の虎徹は、当時名工として名を馳せていた源清麿の打った刀に偽銘を施したものとする説もあり、現在ではこちらの説のほうが強い[1]。近藤自身は所有の刀を虎徹と信じており、池田屋事件の後に養父宛てにしたためた手紙の中に「下拙刀は虎徹故に哉、無事に御座候」とある。
o 他に将軍家から拝領した長曾ネ虎徹興正の作であったとする説や、虎徹の養子である二代目虎徹の刀であった説などがあり、子母沢寛の『新撰組始末記』では「江戸で買い求めた」「鴻池善右衛門に貰った」「斎藤一が掘り出した」の三説を挙げている。
* 暇があれば刀剣の話をしたという。「脇差は長いほうが良い」と書かれた手紙が残っている。
* 妻のつねはあまり器量が良くなかった。近藤には「醜女は貞淑。貞淑な女性を妻にしたい。」という持論があったため。
* 軍書好きの父の久次郎に「三国志」や「水滸伝」などの英雄伝を読み聞かせてもらい、特に関羽に憧れていた。
* 大石内蔵助を尊敬していた。また新選組の隊服を製作する際近藤は赤穂浪士の装束を真似た羽織、袴を発案したと言われている。
* 15歳の頃に父の留守に家に強盗が押し入った。日頃の剣術の腕を試さんと飛びだそうとした兄を「賊は、入ったばかりのときは気が立っているものです。むしろ立ち去るときの方が気が緩み、心が留守になるからその隙に乗じましょう」言って止めたという。そして賊がめぼしいものをひとまとめにして逃げ出すときに、勝太は兄と共に飛び出した。不意を付かれた賊は、まとめた盗品を投げ捨てて逃げたという。それを深追いしようとした兄に、勝太は「窮鼠猫を噛むということがあります。盗られたものは戻ったのだし、放っておきましょう」と言った。このことが世間に渡って評判となり、剣の師匠の周斎に養子を望まれるきっかけになった。
* 近藤の生家は太平洋戦争中の調布飛行場延長工事により取り壊された。